ショパンのピアノ楽譜 主な出版社
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- エキエル版 (PWM)「ナショナル・エディション」
- Wydanie Narodowe Dziel Fryderyka Chopina (フリデリク・ショパン作品国家版)、通称ナショナル・エディションは、閲覧可能な全ての原典資料を基礎とした資料批判に基づく初めてのショパン全集として1967年に始動しました。校訂はショパン研究の第一人者ヤン・エキエルで、後にエキエルの門下生パヴェウ・カミンスキが加わります。以後四半世紀ほどの間に計9冊を出版します。1996年からは装丁を一新し、校訂報告(抜粋)が別冊として付いた改訂新版での刊行が始まり、2010年に全37巻が完結しました。
この全集の構成上の特徴としては、全体がシリーズA:生前出版作品と、シリーズB:没後出版作品に大別されていることが挙げられるでしょう。同じジャンルの曲が一冊で揃わないことに不便を感じる向きもあるでしょうが、出版に際して作曲者が校正を行った作品なのか、あるいは遺作なのかを意識することは楽譜から作曲者の隠された意図を読み取る上で重要なポイントと言えるかもしれません。「和声的レガート」、「表情のアクセント」(デクレッシェンドのようにも見える長いアクセント)といった失われた技法・記譜も提示して、多角的に演奏法を解説していることも大きな特徴。
ショパン・コンクールの推奨エディションとしても知られています。 - パデレフスキ版 (PWM)
- Dziela wszystkie Fryderyka Chopina (フリデリク・ショパン作品全集)、いわゆるパデレフスキ版は、PWM(Polskie Wydawnictwo Muzyczne ポーランド音楽出版社)がショパン没後百年にあたる1949年から1962年にかけて、ショパンの全作品を販売楽譜21冊と管弦楽パート譜(貸譜)として刊行したものです。
ポーランドの国民的作曲家・ピアニストで、同国の首相も務めたイグナツィ・ヤン・パデレフスキ(1860-1941)を編集主幹とし、パデレフスキ、ルドヴィク・ブロナルスキ、ヨゼフ・トゥルツィンスキが編集委員を務めました。決定困難な箇所ではすでに普及している形態に従った、底本を定めていないのでさまざまなヴァージョンの混交に陥っている場合がある、類似箇所に見られる差異を安易に均一化している、などの問題点から現代の学術的水準を満たした批判版とは言えない、と見る向きが支配的になっているようです。とはいえ、20世紀後半のショパン演奏において、最も広範に使用されてきたエディションであり、数々の大ピアニストたちの音盤によってその実演が残されています。 - ヘンレ版
- ヘンレ版ショパン作品はエヴァルト・ツィンマーマン(1991年ショパン・メダル受章)らの校訂によるピアノ独奏作品全曲と2つの協奏曲が20世紀中に出揃い、現在はショパンのスペシャリスト、ノルベルト・ミュレマン校訂による新版が順次刊行されています。
新版では作曲者生前の再版や手入れ本(作曲者の書き込みが入った刊本)など極めて広範にわたる資料を調査しています。そして、資料間の関係を系統図にまとめた上で、可能な限り主とする資料を定めて校訂している点も大いに評価できるでしょう。
また、ヘンレ版としては異例ですが、後世の3つの版(ミクリ版、ショルツ版=ペータース旧版、パデレフスキ版)に関し、特に重大な問題点は校訂報告で指摘していますので、楽譜選びの参考になるでしょう。なお、エキエル版との比較で言うと、長いアクセント(表情のアクセント)はミュレマンも採用しているようですが、個別の箇所に関しては自筆譜なども注意深く調査しており、デクレッシェンドなどとして解釈している場合もあります。
ミュレマンによる新版は曲集では「前奏曲」、「バラード」、「ロンド」、「スケルツォ」が、単独作品では「舟歌」、「子守歌」が刊行されており、その他にピースによる先行発売でポロネーズ、ソナタの何曲かが刊行されています。 - ペータース版(新校訂版ショパン全集)
- ペータース社の「新校訂版ショパン全集」は、ジョン・リンク、ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル、クリストフ・グラボフスキ、ジム・サムスンといった西欧で活躍するショパン研究の権威が結集して2003年にスタートした新しい全集です。グラボフスキと編集主幹のジョン・リンクは 'Annotated Catalogue of Chopin's First Editions'(ショパンの初版譜、注釈付き目録)を共同で編集していますので、ショパン作品の校訂に強力な布陣と言えるでしょう。全集といっても紙装丁、縦31cm、という通常のピアノ楽譜の体裁を採っています。
この全集は、以下の2つの大前提を掲げています。
・多数の異版の総体であるショパン作品には決定稿が存在しないケースがある。
・複数の資料から可能な解釈を繋ぎ合わせて実在しないヴァージョンを生成することは断固として避ける。
というわけで、校訂者はいくつもの資料の中から単一の資料(決定稿でないとしても最良のもの)を底本として選択し、それに基づいて校訂します。異版は脚注・校訂報告で示しますが、多くの相違点がある、あるいは意義深い異版は独立したヴァージョンとして全曲を示します。
近年、刊行が停滞していた時期もありましたが、2021年に「3つの新しい練習曲」が刊行され、練習曲集 op. 10、同 op. 25 の刊行も準備中であることが告知されています。 - ウィーン原典版
- ウィーン原典版で現在発売されているされているショパン作品(ピース・選集を除く)は練習曲、即興曲、スケルツォ、夜想曲、バラード、ポロネーズの全曲と、前奏曲 op. 28、アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズの計8冊です。この他に自筆譜ファクシミリが付いた「ウィーン原典版+ファクシミリ」として「別れの曲」、「雨だれ」、夜想曲 op. 55/2 が販売されています(輸入版のみ)。
エキエル校訂版(即興曲、スケルツォ、夜想曲、バラード)は1977年から86年に刊行されたもので、現行のナショナル・エディションとは内容が異なります。この違いは主に資料評価を改めたことに由来するものですので、必ずしも優劣に還元できる問題ではないかもしれません。
校訂者の中で今後も注目したいのがクリスティアン・ウバー。フランス初版は校正段階で直せるから彫版用浄書は大雑把な譜面だが、ドイツ初版はショパンが校正できないから彫版用浄書は丁寧に書き込まれている、という見方に対してウバーは、フランス初版用浄書には作品の根幹が分かりやすく記されているのであって、決して杜撰な楽譜ではない、と反論しています。こうした見解が顕著に反映されているのが「ポロネーズ」で、「軍隊」ポロネーズはフランス初版版とドイツ初版版の2種類を提示しています。ウバー校訂版は「アンダンテ・スピアナート…」が2010年秋、「ポロネーズ」が2018年とナショナル・エディション完結後に刊行されたためか、見落としてしまう向きもあるようですが、もっと注目されてよいエディションと言えるでしょう。 - ベーレンライター版
- ベーレンライター版ショパンはこれまでに3冊刊行されています。全ピアノ作品の刊行が予告されているわけではありませんが、「舟歌」、「子守歌」といったややマイナーな作品が続けて刊行されていること、ショパンの色(ショパン・ピンク)が設定され、装丁にも反映されていることなどを考えると、今後の続刊が期待できるでしょう。
既刊はそれぞれ校訂者が異なるので、全般的な特徴は述べにくいのですが、「スクリャービン・ソナタ全曲」、「展覧会の絵」を手掛けたロマン派ピアノ音楽のスペシャリスト、クリストフ・フラムが校訂した「前奏曲 op. 28, 45」を例として挙げます。広範な原典資料に基づき、底本を定めて校訂する、という手法はナショナル・エディション、ペータース新版などと同様です。とはいえ、フランス初版のために浄書された自筆譜を底本とするという方針はエキエルと同じですが、校訂結果はエキエル版とはかなり異なります。エキエル版ではふんだんに登場する「長いアクセント」ですが、フラムは一つ一つ吟味をして、これを採用していない部分もかなり見られます。総じてフラムの方が自筆譜(+フランス初版)に依拠する比重が高いようです。
また、ベーレンライター版ではハーディ・リトナーによる演奏慣習に解説が含まれていることが大きな特徴と言えるでしょう。なお、続刊ですが、バドゥラ=スコダ校訂によるソナタ第3番が23年末に予定されています。 - デュラン版(ドビュッシー校訂)
- 1914年に始動した "Edition classique Durand & Fils" は、当代を代表するフランスの作曲家たちの校訂で古典派・ロマン派の大作曲家の作品を刊行する楽譜シリーズです。第1次大戦によって入手困難になったドイツ版の穴埋め、というデュラン社の思惑もあったシリーズだけにごく一部の作品の刊行に留まった作曲家もあった中で、ドビュッシーはショパンのピアノ作品ほぼ全曲を校訂しました。
フランス初版を中心とした出版楽譜が主な資料となった、ということで手稿資料をどれだけ調査したかは不明ですが、19世紀の刊本に見られた改竄のかなりの部分は取り除かれたようです。というわけで楽譜テクストそのものに関しては最新の校訂版には及ばないかも知れませんが、ドビュッシー自身による運指がふんだんに盛り込まれていることは大きな特徴と言えるでしょう。
ショパン自身の運指や現代の一般的な奏法とは異なる、といった点から注目しなかった向きもあるようですが、運指が単なる演奏技法を超えて、モティーフの解明などドビュッシーによる作品分析を含んでいる点は大いに注目すべきでしょう。また、重要な局面を第4指で始める、といった特徴も繊細な表現の鍵となる技法であり、自作にほとんど運指を付けなかったドビュッシー作品を演奏する際にも大いに参考になるでしょう。